ドキュメンタリーとはなんですか?


以前友人たちとの飲み会の席において
「ドキュメンタリーとは何か?」について話をする機会がありました。

家に帰ってからwebで調べてみると、その概要に
「記録映像、記録映画とも言われ、テレビ番組として放送する場合もある。文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。個別の作品については様々な手法がとられている。
一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写、劇映画 (Drama film) ・ドラマは創作・フィクションであると認識されているが、本質的に差はないと実務者(森達也など)に指摘されている。」(wikipedia)とあります。

この記述は、どうなのでしょうか?
少し古典的な記述のような気がしないでもないです。
メディアリテラシーが盛んな今の時代ではむしろ森達也さんのスタンスのほうが
しっくりくるのではないでしょうか。
私も実務者の一人として申し上げるとすれば、
ドキュメンタリーとは「『取材対象をありのままに記録した』といっても差し支えない程度に演出された素材映像等を編集してまとめた映像作品」となります。
その結果、「作品」はそれに関わったもの(撮影、音声、演出、編集、音効など)にしか為しえない唯一無比の「作品」となります。
実際「ありのままの映像」に主観や演出が加わらないということは不可能、です。リュミエール兄弟の撮った映像でさえ演出が施されている、と理解できます。

逆に本当に「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」であるならば、親が撮影した子供の映像はドキュメンタリーにはなりませんね。ある意味「演出を加えたからこそ『ありのまま』の映像が撮れている」パターンだと思うのですが。

あ、なんか考えすぎて頭が痛くなってきた。

コメント

  1. sin より:

    ドキュメンタリーの定義として
    とかく製作者の意図=演出が介在するか?という論議がなされますが
    実のところ、撮影者の意図はあまり関係なく「対象者」がいかに自然体であるか?という事が重要な気がします。
    これまで、職人さんや何か大きな壁に直面している方々などを取材対象として取り上げさせていただいた事がありますが、彼らは「仕事に打ち込む」状況であったり、「普遍的に困難を乗り越えることに必死」である状況で、カメラの存在をかなりの割合で「忘れる」という心理状態になるようです。
    この状態において、彼らが自己の内面に集中しているシーンは、いかにも「ドキュメンタリー」であるように思います。
    そもそも、その手法として「取材者」である自分を時間をかけて受け入れてもらえるように努力したり、存在を極力感じさせない撮影方法、あるいはテクニックを駆使して挑んだりします。
    誤解を恐れずに言うならば、カメラが何かを知らない子供、ボケちゃったお年寄り、あるいは未開の原住民。などという取材対象の場合は、極めて「ドキュメンタリー」として成立しやすいのではないでしょうか?
    だから「はじめてのおつかい」は
    ドキュメンタリーである。
    これが言いたかったんだけどね。

  2. カントク より:

    ある方は「ドキュメンタリーとは社会性」だとおっしゃるし、またある方は「事実の断片」とおっしゃいます。それは確かに「制作者目線」の定義がほとんどです。これは一考の価値がありそうです。
    「はじめてのおつかい」に関して気がついたのは、子供に対してギャラを払っていなければ、「金銭抜きで対象と向かい合って撮影する」ということも言えなくないわけで、それは「ドキュメンタリー」の範疇かと。
    なんでも金が絡むと不自然になりますし。
    だから、「はじめてのおつかい」をドキュメンタリーとして成立させることは可能ですね。